縄文人はどんな生き方をしていたのか?
縄文時代は本当に1万5000年も平和な時代が続いたのか?
縄文人は争いごとがなかったのか?
嫉妬心は?競争心は?
子どもはどうやって育てた?
わたしがずっと知りたかったことで、学んで分かったこと、見つけたこと、メモに残したいことをここに書いていきます。
『縄文』は『今』しかない。
過去や未来はない。
所有も執着もなければ見返りもない。
『縄文』は『情門』であり、
その言葉は和多志たちの中にあるDNAを思い出すスイッチである
縄文土器を見に行った時に、その精密さに驚いた。
わたしは元々おおざっぱだから、こんな細かいものは作れない。
じっくり向き合う時間もない(と思っている)。
でも縄文人は細かく、最後まで丁寧に、しかもそれぞれが独創的な土器を作っている。
どんな気持ちで作ったのだろうか?
ショーゲンさんの動画を見て分かった。
縄文人は自分の一つ一つの所作にうっとりしていた。
うっとりしながら作り、そして出来上がったものにもうっとりしていた。
だから作品たちは今も輝いていて、見る人を惹きつける。
縄文人は孤高の人である。
群れない。
でも集まる時には集まって協力することができる。
縄文人は朝起きて、
自分の足の親指の先が大地に着く、その感触をも愛していた。
水を汲む時の手の丸みも愛していた。
(ショーゲンさんのyoutubeより)
縄文人は非物質の世界から、物質の世界へなったばかりで、半透明。
自分の身体がある、感覚がある、五感がある、ということに感動していた。
所有の概念がない。すべてのものはみんなのもの。子どももみんなの子ども。子どもはみんなで育てる。
(マヤ暦より)
見えない存在を見える存在と同じように接する。
例えば神さまにお供えする時はそこに存在するものとして扱うことや、風や空や太陽にたいしてもヒトにするように話しかける。
見えない存在を感じる能力にたけていた。
体の部位、耳や鼻や目にはそれぞれの役割がある。
その部位が、他の部位に対してうらやむこともないし、嫉妬することもない。役割が違うから。
そんな風に縄文人たちも、それぞれの役割があるということを知っていたから、他人をうらやむ気持ちもないし、嫉妬もなかった。
(矢作先生の言葉より)
傲慢な気持ちは?あった?そもそもなかった?
子どもは誰の子かなんて、わからなかった。
子どもはみんなの子。
育てたい人が、みんなで育てる。子ども同士で育ち合う。
自分の子と思うから所有したくなる。人よりも優れた子に、という傲慢な思いがわく。その子自身を見なくなる。
ご飯はどうしてた?誰が準備してた?
そもそも食べる回数も少なかった。
森に住むイノシシは、365日全自動で、
ちょうどいい相手に、ちょうどいいタイミングで出会っている。
人間もそうできている。
全部食べ物はちゃんと必要なものが入ってきていた。
縄文人もそういう生き方をしていたのではないか?
(全自動の法則より)
作戦も練ってないし、事業計画書もない。
身を委ねて流れに任せていた。
(魚など)必要な分以外は、必ず獲っても逃していた。
溜め込んではダメ。貯金・老後の保険などもダメ。
農作業は1日15分。15分以上やっちゃダメ。
それで全自動の法則に入る。
その日の家族4人の食べ物はそれで食べていける。
(youtubeより)
栄養・カロリーじゃない。量も関係ない。たとえばトウモロコシ一粒に入っている生命エネルギーを身体にとりいれる。生命エネルギーが高ければ一粒でも身体は満たされる。
人間が手を入れれば入れるほど、加工するほど、畑も野菜もダメになっていく。
縄文人は急いだこともないし、頑張ったこともない。
「頑張る」とは、やりたくないことを無理してやること。
遮光器土偶は宇宙服。
右回転でくるくる回って旋回している。
縄文はfeel。弥生以降はthink。
弥生があってこその今がある。